去る10月に日野キャンパスで音楽祭が有志により開催された.このキャンパスで最後に音楽祭が開催されてから,20年ぶりくらいのことだろう.
都立大の文化祭は縮小され,日野キャンパスにはそもそも文化祭がないということは5報で話した.学生に遊びは必要ない,とは私は思わないので,遊びを提供しようと思い,音楽祭の開催を学生にそそのかし開催してもらい,有給を消化して学生の演奏を観察した.遊ばない,出会いがない,情報が偏って人生の選択が狭まる,婚活サイトに100万円を使う,などという未来を防ぐ意味でも音楽祭を開いたら良いと思った.いざこざが面倒くさいから結婚は職場等の身近とは関係ないところで,などという甘い考えでは結婚生活は成り立たないから身近から探せばいい.人生すべて本人次第そんな機会を与える必要はない,と言われるが本当に本人次第だというのなら無人島からスタートしてもらいたいものだ.結局人生本人次第などという論理は,ある程度の平和な社会を想定している.音楽がやりたいなら,ライブハウスに行けば良いじゃないか,と思うかもしれないが,大金が必要なうえに,ライブハウスの空気がひりついていて初心者が音楽をやる場所では到底ない.インターネットで遊ぶ方法などいくらでも調べられる,という意見は,知識のない子どもが商業サービスに搾取されるだけの結果になるので妥当ではない.結局のところ,ある程度近くにいる,信頼できる大人が,機会を提供していかなければならないんだどんな時代になっても.
話がそれてきたな.身近な祭りは,人と関わるための第一歩として大変な効果があるんだ.ということを言いたい.なぜ音楽祭りか.みんな音楽を聴けるし,友人の演奏はプロの演奏とは違った感動があるからだ.常にプロの音楽しか聴いていない大概の人には,良い音楽はアクロバットな演奏や,類まれな歌声から生じるのだと思うかもしれないが,楽器は正しく調律されているだけで素晴らしく綺麗な音がするのだ.なんてことのない友人がその調律の正しい楽器で音を鳴らせば,楽器の音が鳴っているだけで綺麗なのだという根本に気がつく.カラオケで歌う場合では確固たるリズムで伴奏が流れ,その当然の様子にあまりにも暇だから採点ゲームなど始めるだろうが,生の演奏では友人が計画的に音を配置して時間の流れを作り出す風景が見れるだろう.その演奏が何点に相当するかなど考える余裕もなく,規則を持って音がおかれるだけで意味があるように感じる原因を必死になって考えるのだ.それが物の存在とはなにか,感じることとはなにかを考えるきっかけになるのだ.ついでこの経験があれば楽器が演奏できるかどうかでマウントを取り合う悪習に至らなくて済むだろう.
昔は,スイッチにより実現された1 bit の論理の組み合わせにクロックなるものを与えて計算が実行されている様子を見て,計算とはなにか,時間とはなにかを考えるきっかけがあり,情報を伝えることとはなにかを考えるに至るのだろうが,この最近はそうではない.そんな細かいことを無視してライブラリを組み上げる能力が問われる.人材を利用する側にとってはそれでいいのだろうが,本人にとって自分の存在を考えるきっかけにはならない.それを考えるかどうかは本人が決めるのかもしれないが,何度もいうがきっかけを与えることが必要だ.論理回路,DNAとタンパク質の連鎖を眺めるのでも,素粒子を眺めるのでもいいが,これをやらせる余裕まではないし,その感動は世界の多くの人と今後ほぼ確実に共有できないだろうが,音楽ならば,ほとんどどの人間とも共有できる可能性がある.私はこうして音楽祭を開くように働きかけることを選んだのだ.働きかけただけで,あとはすべて学生がやってくれた.大したものだった.もちろん音楽は生活の役に立たないからそれだけではだめだからライブラリの使い方も覚えたらいい.なんで一見役に立たない音の列が何千年も人々に愛されているのか,不思議だろう.
祭りをまたやりたい人は運営に関わる必要がある.構内のチラシをよく確認して関係者へ連絡を取ってくれ.